加藤令吉 | 背戸窯

MENU

{$title1}

背戸窯二十二代目として

 加藤令吉で二十二代目の背戸窯は、慶長年間に、初祖(景長藤左衛門、壮年の頃背戸次郎と款した)が開窯して以来、四五〇余年続く、瀬戸、赤津焼の窯元だ。瀬戸市の赤津地区に位置するアトリエの内玄関へのアプローチには、加藤の彩釉陶面などが配置され、不思議な空間となっている。アトリエは轆轤などが並ぶ仕事場と、祖父・父・加藤自身の作品や古代オリエントの考古遺物のコレクションなどが並ぶギャラリーに分かれている。
 昭和二十八年に令吉が生まれて、一家は跡取りが出来たことをなにより喜んだ。加藤が幼いころは、祖父丈助が七〇代で、父釥も今の加藤よりも若く、三代同居だった。そのような家庭環境の中、ごく自然に窯を継ぐということが加藤の中に組み込まれていった。また、瀬戸という土地柄、当時の市内の小学校にはすべて窯があって、教育の一環として陶器つくりがあった。
 その当時から江戸時代の織部、瀬戸焼の織部を愛した丈助の茶道具は評価が高かった。それでも、祖父のころの背戸窯は、「製陶所」という位置づけで存在していた。後に父が日展にチャレンジしたころから背戸窯は陶芸家としての道を拓くことになった。

陶芸家としてのスタート

 名古屋にある東海高校時代の加藤は、デッサンなども描き続けていたが、野球やバンドにも熱中し、気がついたら何もかも中途半端な状態だった。卒業が近づいてきた時、担任に玉川大学を勧められ、文学部芸術学科に入学する。
 陶芸は家業だったので子供の頃から傍らで十分に見聞きしている。また、加藤唐九郎、河本五郞、鈴木青々ら、当時の現代陶芸の巨匠らにもすでに出会っている。そんな加藤にとって玉川大学の陶芸専攻科の授業はプロの陶芸家になるためのスタートとしては全くの期待外れだった。一念発起して京都市立芸術大学への再受験を父親に相談したら、「今の大学で満足できないというのなら、お前にとっての満足とはなんだ?満足する環境は自分でつくるものだ。」と言われて、すごすごと大学に戻った。

 そのころ、清水九兵衛のステンレスの作品を知った。清水九兵衛が清水焼きの名跡清水六兵衛の養子となって以来日展に出品していたのは知っていた。父達の世代からもあこがれの作家だった。清水は粘土の限界を感じ、金属に転じた作品を発表した。しかし、原型は粘土でつくっていた。加藤は清水の作品に触発された。これまでの造形感みたいなものが払拭され、自分なりの作品を試みたが、窯に入れる前に割れてしまった。担当教授に基礎が出来ていないことを指摘され、自分でも未熟さを悟った加藤は土練りからやりなおした。加藤令吉が陶芸家としてのスタートラインに立った瞬間だった。
 また、歴史の勉強もし、同時に、当時の現代陶芸で注目を浴びていた八木一夫や加守田章二の作品も研究した。さらにジャコメッテイやイタリア現代彫刻に造詣の深い研究者の話を聞き、図書館や洋書専門店のイエナ書店でその作品集や図録を探した。
 卒業後も、京都市立芸術大学の大学院への進学や海外への留学を試みたがタイミングが合わず、実家に戻った。
 実家に帰った加藤にある葛藤が生まれた。
 学生時代の恩師は千葉県我孫子在住の岩村守。岩村は東京藝大の彫刻出身の陶芸家だが、その父親が京都の陶芸家河村熹太郎の轆轤師だった関係で、大学で加藤が岩村から習ったのは京都風だった。それは成形から釉がけまで実家とは異なるものだった。土に恵まれた瀬戸では生掛けを伝統的に行ってきたのに対して、土を近くで調達できない京都では良質の製品を無駄なくつくるため素焼きをする。「合理性を考えたら素焼きがいいんじゃないか」と父に進言すると、「うるさい、だまっとれ、お前の代になったら好きにやれ」と突き放された。
 そのような状況だったが、地元の陶芸の先達、栗木達介らの仕事の現場を見ることで、陶芸を創作することの厳しさを実感した。

黒釉・白釉

 「自分の体と心の中で魅力を感じたいくつかのものを形に描きためておいて次回作のプランを紐解いていく」と加藤は語る。

 加藤は縄文・弥生時代が陶芸の基本と信じ、モチーフのイマジネーションを動物の土器やペルシャの先史土器から得ることもある。鉄筆などでつけるシャープな線が好きで彫り物もするが、全体の姿としては先史時代の抽象化された牛の土器などが最も好きだという。そして、そこから進化すると究極はムーアとかブランクーシのようなフォルムが浮かんでくる。「がたがたしたものではなくて、ふあっとしたもの」が、加藤の表現したい形。若いときはそれを黒で表現し続けたが、あるとき自分はもう色をつけてもいいと思い、彫ったり彩色をするようになってきたと語る。

 加藤の黒釉はペルシャの先史時代の土器やギリシャやローマのヨーロッパ先史時代にあった青銅器文化を思い起こさせる。黒釉は陶器の持つ黒さというよりもむしろ金属が朽ちていく状態、鉄錆を感じさせる。一方白釉は、タタラの状態の土の新鮮さを感じさせる。第四十二回出品の「幻影」も白釉に黒い輪の穴をつくり緑のドットの意匠を配置したものだが、そのまま若者の衣服になりそうなモダンなデザインである。数千年の歴史を感じさせるような黒釉とフレッシュさがみなぎる白釉。どちらも加藤の作品であるところに、加藤の歴史への造詣と発想力の豊かさを感じる。「陶芸の才能のあるなしというのは、発想と表現力。器用不器用だけじゃない。生み出そうとする形の洗礼された結果がその才能を示す。先天的な美というより蓄積されたもの」と語る。加藤が駄目だと思うのは、感動せず、刺激がない人間。

 しかし、刺激を得ようと新しいものに目を向けるだけではいけない。歴史の大切さも加藤は十分認識している。瀬戸という一大陶業地に生まれて思うのは、国を挙げて、その大事にされた陶業地の一員として、歴史の重みを知り同時に、生み出されてきた作品の価値を忘れてはいけないということ。歴史の中にあるものを見出し、その地域に感謝したい。瀬戸が窯業の重要な生産地となりえたのは、豊富な資源。粘土、鉄絵、呉須など全て自然の原料が調達でき、燃料は山から切った木々を燃やしたため。「ものすごくプリミティブな要素の中でものを作ってきたのだからその恩恵を与えてくれた土地に愛を持たなくてはいけない」と切々と瀬戸への思いを語る。加藤と父が作った壁画や加藤自身が作った壺に大きなトンボが描かれている。「トンボは後ろへ行かない、まっすぐ前へ進むだけだから」と考えるからだという。  歴史という背景の重要さを背負いながら、加藤は常に前進する陶芸家だ。

文・井谷善恵(いたに・よしえ)